| ひかりのことして あゆみなさい。 |
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| エフェソの信徒への手紙 5章8節 |
| 「光の子」ではない人は、「光の子」として歩むことはできない。「光の子」である可能性があるからこそ、「光の子として」歩むことができるのである。それゆえに、「光の子になりなさい」とは言われていないのである。 「光の子」という事柄が表しているのは、「光」の性質を受け継いでいる「子」ということである。では、「光」の性質とはいかなるものであろうか。「光」は、すべてを照らす。嫌なものも隠したいものも照らし出してしまう。人は、そのようなものは照らし出して欲しくないので、隠そうとする。そして、自分の良いところだけを照らして欲しいと願うものである。しかし、良いところだけの人間はいない。いや、人間は悪いところばかりである。子どもたちにしても、自然のままでは悪い人間なのだ。このことを、キリスト教では原罪と呼ぶ。人間という存在が、悪いところばかりなので、すべてを隠したいと願い、すべてを闇に葬りたいと願う存在であることを原罪という事柄が示しているのである。 ところが、神は人間のすべてをご存知なので、悪いところばかりの人間をすべてご覧になっている。人間は、そのような神に裁かれると思って、悪いところを隠して、良い人間になろうとする。そうして、神を欺き、他者を欺き、自分を欺く。それが罪に堕ちた人間の性質である。 このような闇に閉じ込められている世界に、「光」は来て、すべてを照らす。しかし、照らされたものは裁かれるのではなく、光に受け入れられているのである。裁くために来る「光」ではなく、その人が自分自身の罪と悪を正しく見ることができるように照らすために来る「光」なのである。この「光」を拒否する者と受け入れる者とがそこで生じる。この違いは、信仰によっている。信仰によってこそ、「光」を受け入れ、自らの罪を認め、裁かれるべき存在であることを認める。そのとき、「光」はすべてを受け入れ、その人が正しく生きることができるように導く。この導きに従う者が「光の子」なのである。 子どもたちにも罪は内在している。しかし、罪と闇に縛られている自分を知るならば、そこから解放されるのである。そして、「光の子」として生きることができるのである。本来的にあなたは「光の子」なのだから。 |
| ルーテル幼稚園チャプレン 末竹十大 |
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