| あなたがたはキリストのからだであり、 また、ひとりひとりはそのぶぶんです。 |
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| コリントの信徒への手紙一 12章27節 |
| 使徒パウロは、「部分」と「体」の関係に基づいて、「部分」と「部分」の関係が生じるのだと語る。どこかの「部分」が自分だけが支配する世界を作ろうとすると「体」は壊れてしまう。そして、「部分」として生かされていたものが、部分ではなく、ある「部分」が作る世界の道具になってしまうのである。このような世界が、我々の世界である。誰かの世界のための道具にされる人々が生じるとき、全体主義が現出する。 人間は、個としての「わたし」を持っている。しかし、この「わたし」は「わたしである」ということを、わたしの世界を作ることによって確認しようとする。ところが、この確認のために、他者が使われるとすれば、その他者の「わたし」は失われることになる。わたしが自分を確認するために、他者を犠牲にしているわけである。これが全体主義の根源にある問題である。ひとりの人間の支配が、全体であり、全体のために「部分」は自分を失うのである。これは、人間として生きている世界ではない。その場合、「部分」は「部分」であるようでいて、実は「断片」としてしか生きていないのである。支配されている「部分」は、他と関わりない道具であり、「断片」なのである。 ところが、パウロが語る「部分」とは、「キリストの体」の部分である。この部分同士は、「キリスト」を通して、結ばれ、互いに痛みも苦しみも共有する。「キリスト」が部分の痛みを受け取り、他の部分は「キリスト」につながっているので、他の「部分」の痛みを自分の痛みとすることになる。それは、人間の体と同じである。指先が傷ついても、体が痛むのである。他の部分も痛みを感じるがゆえに、指先の痛みを補うことが体に生じる。それと同じ生き方が「キリストの体」として生きる「部分」の生き方なのである。 ルーテル幼稚園は、キリストの体から生じた幼稚園。共に痛みながら、成長していく「体」である。子どもたちが、「体」の「部分」として生きていくことができますように。教師も保護者も「部分」として支え合って生きていけますように。あなたがたはキリストの体、断片ではなく、大切な部分なのです。 |
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