4月の聖句
4月の聖句
ヨハネによる福音書 15章16節
この言葉はイエス・キリストが弟子たちに語った言葉である。弟子たちは、イエスが素晴らしいので付いてきたと考えていた。他の先生よりも良いと自分たちが判断して付いてきたと考えていた。イエスは、そのような弟子たちの思いを知って、このように語ったのである。
幼稚園に入るときにも、幼稚園を選んで入園したと考える。幼稚園の方も「わたしたちを選んで来てくださった」と考える。お互いに選び、選ばれると考える。我々の生きている世界においては、これが当たり前だと思うものである。しかし、「ここしか空いていなかった」という方もいることであろう。その場合は、誰かが選んで、ここに置いたと考えることもできる。果たして、我々人間が選ぶという行為は、本当に自分が選んでいるのであろうか。
聖書が語るのは、神が選んだということであり、イエス・キリストが選んだということである。我々が選んだと思う行為においても、神の選びがあって、ここに置かれているということである。それは、神の選びをわたしが受け取り、選ぶように導かれているということである。
我々が選ぶ場合、もっと良いところがあれば移りたいと思うであろう、もっと良いとわたしが判断するがゆえに。しかし、そのように移行していく生は、土台を欠いた生である。置かれたことを受け取るときには、わたしの判断を捨てて、置いてくださったお方に従う心が生まれる。そのとき、我々は土台の上に立てられている。自分の判断に左右されず、揺るぎなく生きることが可能となる。イエスが「わたしがあなたがたを選んだ」と言うのは、このような意味においてである。
一人ひとりの子どもたちを選び、ここに置いてくださり、すべての責任を負ってくださる神がおられる。あなたは選ばれているのだ。
チャプレン 末竹十大