学校法人愛知ルーテル学院 名古屋ルーテル幼稚園

8月の聖句

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今月の

実に、キリストはわたしたちの平和であります。

エフェソの信徒への手紙 2章14節


 「平和」とは、ヘブライ語でシャローム。完全性を表す言葉である。我々人間が、自らの欠けを認めたとき、神のシャロームの中に入れられている。そのような平和は、我々人間を「一」に綜合する神の働きである。「キリストはわたしたちの平和」とは、仲良しになることではなく、仲間になることでもない。相手との違いを認めず、他者を尊重しない自らの罪を認識するとき、平和を生きるのである。そのとき、我々は「一」の一部であるわたしを認識している。

 「わたしたち」とは、複数でありつつ、単数である。わたしたちを構成する存在は、個を認められてこそ、平和である。個が認められなければ、平和ではなく、誰かの思想に糾合されて、抑圧を受けている。このとき、我々は平和を感じることはない。他者を認め、他者もこのわたしを認めてくれるとき、我々は平和を感じる。

 反対に、争いは違いを認めないがゆえに起こる。どちらかに糾合しようと、争いが起こる。平和なる存在は、個を認める存在である。そして、別々であっても平和である。同じことをすることがなくとも、平和である。それぞれが尊重されているときこそ、平和である。わたしが認められているように、あの人も認められているという認識こそが、信仰の認識なのである。それが、イエスが教えてくださった神の愛の下での平和である。善人にも悪人にも太陽を昇らせ、義人にも罪人にも雨を降らせる父の下での平和が、そこにあるのだ。

 キリストはそのために、十字架に架かられた。個々の存在が、それぞれに認められつつ、受け入れられている存在として生きるようにと。神の愛は、平和を造り出す。罪深い存在を綜合して、「新しい人間」を創造する。平和を造る存在を創造する。子どもたちが、平和を造る人間となりますように。

チャプレン 末竹十大

年主題

置かれたように

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