7月の聖句
7月の聖句
使徒言行録 18章10節
誰か一緒にいてくれたならと思うことがある。そばにいてほしいと思うことがある。一緒にいてあげたいと思うこともある。人は、一緒にいることを求めている。でも、神さまは見えないので、一緒にいるかどうかも分からない。キリストがパウロに語りかける言が聞こえるが、キリストは見えるわけではない。見えないのだから、一緒にいると言われても、何の力もないではないかと思える。ところが、キリストの言がパウロに力を与えた。キリストが語る言に励まされて、パウロは語り続けたのである。どうして、このような力を与えられたのだろうか。
「わたしがあなたと共にいる」という言は、パウロが自分の感覚で感じることではない。ただキリストが語る言である。パウロに感じられるとき、キリストが一緒にいるわけではない。感じられないとき、一緒にいないわけでもない。パウロが感じることを越えて、キリストの言は宣言しているのだ。従って、我々人間が確認できなくともキリストは一緒にいるのである。その言を信頼するわたしと共に。
人間の感覚は、この世の現象を確認するために必要な感覚ではある。しかし、神の出来事を確認するためには、人間の感覚は無力である。神の出来事は信頼することを求めるのである。その言の中に入ることを求めるのである。そのとき、語られた言自体が、わたしを力づけ、神の意志に従う力となってくださる。こうして、人間を恐れる必要は無くなるのである。
こどもたちの直感は信仰に近い。大人は直感を知識によって曇らせてしまう。先入観のない直感は、神の言を素直に受け入れる。素直に信頼するとき、その子の力となっていく。こどもたちが曇りなく神の出来事を見る目を守られて行きますように。「わたしがあなたと共にいる」と語る神の言だけが力をくださるのだから。
チャプレン 末竹十大