8月の聖句
8月の聖句
テサロニケの信徒への手紙一 5章17節
「祈り」という言葉はヘブライ語でテフィーラーと言う。語根はターフェルで、「無味乾燥」、「つまらない」、「味気ない」、「愚かな」という意味である。ヘブライ人の祈りの姿を周りの人間たちがそのように揶揄していたのであろう。しかし、周りからどう言われようとも、無味乾燥でつまらない「祈り」を彼らは継続した。それによって、多くの人を慰め、力づける祈りの言葉が紡ぎ出された。それが旧約聖書の「詩編」に集約されている。つまらないことを継続することで豊かな言葉の泉が湧き出してきたのである。
つまらない、無味乾燥だと思われる「祈り」は、神ヤーウェにのみ向かっている。彼らの周辺の民は、時に応じて祈りの対象を取り替えていた。周辺の民は、ヘブライ人の「祈り」を馬鹿にしながらも、困ったときの神頼みをしていたのだ。今日はバアル、明日はアシュタロテと祈りの対象は替わっていった。自分たちの都合によって神を取り替えるのだから、何も信じてはいないのである。
また、無味乾燥で、つまらない「祈り」が聞かれようと聞かれまいと、ヘブライ人は祈り続けた。祈ることそれ自体が、彼らを支えた。祈り続けることで、自分自身を省み、悔い改める契機ともなった。祈りは単なる嘆願ではないからである。祈りは生き方である。ヘブライ人は祈るように生きてきた。嘆きの時も苦難の時も喜びの時も絶えず祈り続けた。祈りは生きることそのものなのである。
「絶えず祈る」などできないと思うかも知れない。しかし、祈りつつ生きる人は常に神に向かって生きている。自分を省みつつ生きている。祈るお方との対話、それが祈りである。こどもたちが対話する神を持っているならば、彼らは自ずから成長していくであろう。自らを省みつつ、おともだちとつながっていく祈りが紡ぎ出されていくであろう。夏の間も、祈りつつ生きるこどもたちでありますように。
チャプレン 末竹十大