学校法人愛知ルーテル学院 名古屋ルーテル幼稚園

2013年度の聖句

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今月の

今は主に結ばれて、光となっています。

エフェソの信徒への手紙 5章8節

 


 「光」はすべてをさらしている。誰からも見られている。「闇」はすべてを隠している。誰からも隠し、自分自身さえも分からなくなってしまう。「闇」は「光」である事実を覆い隠し、過去に縛られている。「光」は今を今として生きている。「光である」ことを生きている。「光」は今まで「闇」であったことを知っている。自分の「闇」を知っている。その「闇」をさらすがゆえに、「光」である。
 我々人間は、神の創造としては「光」である。しかし、自然的には「闇」の状態にある。隠れている状態にある。この状態から脱け出すには、自らが「闇」であることを知らなければならない。しかし、「闇」であると思っていない人間が如何にして「闇」であることを知ることができるであろうか。

 「闇」であると分かっているならば、「光」の方に来るであろう。光に照らされることを受け入れるであろう。分かっていないがゆえに、「闇」は「闇」に留まるのである。このような状態からは誰も脱け出すことはできない。ただ、神が「お前は闇なのだ」と教えてくださらない限り、誰も脱け出すことはできない。さらに、「闇」であることを知っても、自分で脱け出すことはできない。神のみが、脱け出させてくださるのだ。それが「主に結ばれて」という言葉で表されている事柄である。原文では「主のうちで」であり、主なる神とキリストに包まれてということである。
 人間自身からは脱け出すことができない「闇」を照らすために、キリストは来た。「光」であるキリストに照らされることを受け入れるとき、我々は「光」である事実を受け入れるのである。それは良い人間になることではない。悪しき「闇」にしか過ぎない自分を受け入れることである。そのとき、我々は「光である」事実を生きるのである。さらされている事実を生きるのである。そのときには、自分が「闇」であることを知っているのだから、他者の「闇」を照らすことができる。こどもたちも「闇」である。しかし、今、主を知って光であることを教えられた。卒園するこどもたちが「光である」事実を、光の子として生きて行けますように。自らの「闇」を知った者として。

チャプレン 末竹十大

年主題

さあ、漕ぎだそう 奏でよう