学校法人愛知ルーテル学院 名古屋ルーテル幼稚園

1月の聖句

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今月の

風は、思いのままに吹く。

ヨハネによる福音書 3章8節

 


 「風は思いのままに吹く」とイエスは言う。「思いのまま」とは、「それが意志するところへ」が原意である。風が意志するところへ吹くとは誰も考えない。風は何となく吹いているのだと思う。風に意志があるはずはなく、単なる気圧の高低の差が風となって吹くのだと思う。風は偶然吹くのだと考える。しかし、イエスは「それ(風)が意志するところへ吹く」のだと言うのである。おかしなことを言うイエスである。
 我々人間も偶然生まれたと思っている人もいる。この世界は偶然の世界であり、偶然人間が生きることができる環境ができて、偶然わたしが生まれたと考えるものである。しかし、聖書は人間は偶然生まれたのではないと語る。神が人間を造ろうという意志を持ったがゆえに、人間は生まれたのである。わたしという個人も神の意志に従って生まれたのである。神が意志をもってわたしを生んだのであれば、わたしの起源は神の意志にある。起源があるのだから、到達点もあるはずである。これを聖書は「神の国」と呼び、またヨハネによる福音書は「永遠の命」と呼ぶ。「神の国」あるいは「永遠の命」とは領域でも自然的命でもない、神の意志に従った国であり、神の意志に従ったいのちである。我々は、神の意志を起源として、神の国(神の支配)の中に生かされている。そして、到達点である「神の国」「永遠の命」に向かって生かされている。
 我々人間が生きているということは、自分の意志ではなく、神の意志である。神の意志の中に入ってこそ、はじめて自由があるのだ。神の意志を認めてこそ、自由を生きることができる。起源と到達点がはっきりしてこそ、自由に生きることができるのである。自由とは「わがまま」のことではない。自由とは起源と到達点がはっきりしている中で、如何様にも生きることができるということである。こどもたちも実は自由の中にいる。それを妨げているのは親や社会である。そして、彼ら自身である。自らが神によって生み出され、神に向かっていることを知ることで、彼らは自由を生きることができる。このような信仰によって、歩むことができるようにと祈り仕えるのがキリスト教自由保育である。

チャプレン 末竹十大

年主題

ともにつむぎだす~希望の中で~